このページは皆さんにご理解頂けるよう手紙形式にしました。
私の聲明修行の一環を表した物語?が出来ましたので、お約束通り送信いたします。
本当に修行時代の一部分の話ですのでご判読下さい。
はじめに!
龍大に入学した時、当時顕著な聲明の師匠の元で下宿し内弟子生活を始めました。
興正派霊山本廟(別院)師匠は近藤真因輪番でした。
昭和41年の春。師匠70歳位、私18歳でした。
その頃師匠は大原魚山聲明とは言わず圓頓山聲明と言っていたと記憶しています。
圓頓山は本山興正寺の山号です。圓頓山華園院興正寺と号します。
龍大の講義の受講と剣道部の稽古、師匠の聲明を聞く生活が4年間続きました。
師匠は内弟子生活の4年間に聲明・作法に関して自ら何もご指導はありませんでしたし他の聲明の先生との議論も全くせず黙って聞くのみでしたが、私や式務衆の質問には、その質問のみにお答え下さいましたが関連したお答えは全くありませんでした。
質問を捜すのが勉強でしたし、お答えに対する次の質問、次の質問と延々と続くことが何時間と続いた事も度々ありました。
聲明の実唱も数時間におよびましたが、ご自身からご注意とかお指導は一切ありませんでしたし、晨朝で居眠りしても、間違っても一切のお咎めはありませんでした。
龍大を卒業して讃岐に帰省する朝に次のご指導がありました。
「聲明の極意は心である」いかに声が良く節まわしが良くとも、大衆の心に感動をあたえるものではない。つつしみ深く、たかぶらず、内に秘める信仰心から迸る聲明であってこそ、僧俗ともに心深い念仏の声が、おのずから漲ることであろう。争いは聲明師の最も嫌われることなり。
と面授口訣くださいました。
ユリ、キリ3年。伽陀8年。まだまだ道は遠いと感じました。
その後、月に数度の通い稽古、上山の時の稽古と習礼を続けていました。
その師匠も高齢の為昭和52年に霊山本廟の輪番を退職し讃岐のご自坊に帰山されました。
その頃から魚山の古儀の研究をされている大学の教授方が沢山ご自坊に見えられ私が実唱したことも度々ありました。その先生方の論文は今もご自坊に大切に保管されておられると拝察しています。
その頃から若い僧侶達が研究に通われ熱心に勉強し師匠を喜ばせました。
時代は若者に移り代わってきたようでした。
しかし私に対する聲明習礼はいつもと同じスタイルでした。
本山興正寺では御伝鈔(興正寺では御伝記といいます)と御俗姓(興正寺では御俗姓法章といいます)の拝読者は一年前に言い渡しを受けます。
私も昭和63年に来年の御伝記拝読者のご使命を受け、師匠に報告し習礼をお願いしました。
師匠の指導では御文章(興正寺では御勧章といいます)の拝読は3字下、オシ、息のキリ以外の感情をだしてはいけないが、一番大切なところが、あなかしこ。との事(興正派では2回目のあなかしこ、は声に出さずに心中で読む)この「あなかしこ」の音程と声の大小を誤れば拝読した御歓章が死んでしまう。拝読してきた御歓章を生かすも殺すも「あなかしこ」にかかっている。この「あなかしこ」には心をこめなさいとのご指導で何回も何日も稽古した思い出があります。
御伝記と御俗姓法章の拝読は個人の感情を出して拝読しなさいとのことで、特に御伝記の一番大切な部分が往生の段の「ついに・・・」とのことでした。
約1年の長期に渡る習礼でしたが、最後の往生の段の(頭北面西右脇に臥したまひて「ついに」念仏の息たへ~おわんぬ~・・・)の高音になった所での「ついに」の習礼を何百回、何千回と行った記憶があります。
習礼で私が(頭北面西右脇に臥したまひて「つい~に~」念仏の息たへ~おわんぬ~)と拝読すれば・・・アカン。
もう一度拝読すれば・・・イカン(讃岐弁)
何回、何十回拝読しても、アカン、イカンの連続のお言葉で最後に「もう止めとこか、また今度稽古してから来なさい・・・」
数日自坊で稽古して師匠の前で拝読すれば、「君、お聖人が亡くなっていく瞬間の光景を表した「ついに~・・・」を君はそんな簡単な感情でしか表現できないのか、お聖人が亡くなっていく光景を思い浮かべて君は涙の一つも出ないのか・・・?
それなら参詣のお同行は誰も泣いて聞いてくれないよ・・・。ただ無感情な拝読の「ついに・・・」としか聞き流し誰も泣いてくれないよ・・・。
エッ!本山参詣のお同行を泣かす。エ~ッ・・・?
それから命賭けの習礼が再開しました。
「つ~いに」ダメ。「つ~い~に~」アカン。「つい~に」・・・。「ついに~」もう一度。
君、自分の両親が死んでいくとき「つ~い~に~」死にました。と親族に伝えるか・・・。
もう一度・・・拝読して・・・。
そのうち私の心も、喉もボロボロになり涙がほほをつたいました。師匠はその涙を見て「どうして泣くのか・・・」と尋ねられたのでした。
私がお聖人のお亡くなりになるときを想像すると思わず涙がでて・・・。と言うと。
それで良い。よく頑張った。本山では作法を間違えないようにと仰られなぜか下を向かれたのが印象的でした。
そして平成元年の報恩講11月25日の初夜、ご影堂での御伝記拝読。
最後の往生の段では感涙に咽び思わず涙声になってしまいました。
しかし、師匠から教えられた「ついに」は思うように出来ませんでした。
いま、考えても当時のテープを聞いても、やはり出来ていません。残念です。
一連の作法を終え後堂に帰った私に参拝していた悪友の一人が「ほとんど全員の参拝者が下へ向いて涙ぐんでたよ」と私の背中を撫でてくれました。
その後当時のご門主さまに御伝記のご本をご返却に行きお礼言上申し上げ私の御伝記拝読のお役目はとかれました。
その後師匠に報告し肩の荷をおろしました。
この御伝記拝読は100分テープに収まったらしく、それを教化参拝係りが私に無断で録音して、マスーターテープから希望者にダビングし、そのテープが全国に数十本巡り巡っているとの事ですが何故か本人の私の手元へは回ってこずマスターテープも誰の手にあるのか今も
わかっていません。
本山での拝読が終わったその日以来、他の寺院から拝読依頼がありましたが、すべてお断りしています。
本山での拝読以上の自信が持てないからです。今後もしないでしょう。
御俗姓法性は(この砌において仏法の信・不信をあひたづねてこれを聴聞してまことの信心を決定すべくんば、「真実真実」聖人報謝の懇志にあひかなふべきものなり。
この御俗姓法章においては「真実真実」のくだりが一番大切で「真実」のない者が「真実真実」とさらっと拝読しても参詣のお同行はなんの感激も覚えずタダ聞きました。になるよ・・・。
といわれ「真実真実」を御伝記と同じく長期間の習礼をいたしました。
以上は拝読法を中心に紹介させて頂きましたが聲明もそれぞれの聲明にポイントがある、覚華讃のユリ三の三回目のユリの唱え方。八句念仏の本下とモロ下。教化の口から火を吐くような唱え方。等々。
鳴り物の鏧、磬の打ち方。「鏧棒は一老が持つ」のことわざ通り磬、鏧の打ち方ひとつで、その聲明や読経の生き死にが決まる。
特に往生安楽國の最後の三声の三声目に命をかけて打ちなさい。三声目の打ち方によってそれまで唱えてきたモノの評価が決定される。
この法具使用法の稽古も苦しかった思い出の一つです。
何ヶ月も何年もかかってOKを頂き自分も納得した曲は法要とかでは唱えず自分のなかで大切にしておきたいと思う不思議な現象があります。
師匠との20有余念の間には天台聲明の第一人者の中山玄雄、片岡義道、天納伝中等の先生方との出会いでの思いでもたくさんあります。
法要等で導師独吟のときなど今もこの耳の奥で師匠の声が鮮明に私とともにお唱えになってくださいます。
師匠の晩年は特に音程、音階に力を入れたご指導でした。
宮内庁雅楽部からの紹介で購入したチューニングバー・師匠自ら製作した12律の磬石(師匠の師匠深達僧正のご自坊大原宝泉院で師匠製作のものを見ること出来ます)12律調子笛・市販のキーボードを430ヘルツに調律し正確な音に神経をそそぎました。
いつか機会あれば昔のように本山で登壇し魚山古儀の聲明を独吟したいのですが無理でしょうね。悲しい限りです。
その師匠も平成2年に96歳でお浄土に帰られました。
亡くなる朝まで切ブシの先請伽陀をお唱えになり、本譜の先請伽陀よりこの切ブシの先請伽陀の方が簡単なようだが難しい。まだまだアカンわ・・・。と言っておられたのが印象的でした。
師匠のお葬式に始段唄をお唱えさせていただきました。
許し物の曲で唄伝を受け唱えることを許された者が唄師の称号を名乗り唱えられる秘曲のひとつです。
師匠亡き後一番弟子が若師匠の順良が唄師を継承してご指導されていましたが平成5年に 65歳の若さでお浄土に帰ってしまわれ今は兄弟子と2人で細々と魚山聲明の古儀を伝承しています。
最後に連読に触れておきます。「あなたのお声はよく目立つから・・・息継ぎとか、声を舌に乗せるようにとか」のご指導を頂いたとかお聞きしましたが、私の師匠のご指導とは少し異なります。
師匠がご本山で聲明の先生方数名と聲明や読経の連読をされると師匠の声は全くといっていいほど聞き取れません。しかし師匠が欠勤されるとその法要のお声は全く淋しいお声になります。
「清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ 宮商和して自然なり 清浄薫を礼すべし」
「宮商和して自然なり」のとおり、出勤全僧侶と調和した声を出し自分一人目立つてはいけない、高声念仏も慎むべし、とのご指導でした。
まだまだお話したいことは山ほどありますが思い出を美化させておきたく思いますのでこの位で終わりにしたいと思います。